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不運という名の普遍性/映画『컴, 투게더/カム・トゥゲザー』② [韓国映画]

 この映画を観終わった時、私は思わず大きなため息をついてしまった。
 まず感じたのが、重く現実的な「やるせなさ」だったからだ。

 もちろん、この「やるせなさ」とは、映画を褒めている言葉でもあるが、『カム・トゥゲザー』が投げかける映画的体験とは、観る者自身が現実で直面している不運を、改めて突き付けるものでもあった。

 最近、韓国の過剰な競争社会ぶりがネットやマスコミで面白おかしく頻繁に伝えられるようになったためか、『カム・トゥゲザー』も、そういった韓国的現状を描いた作品として語られる傾向が見られるが、この映画で描かれる社会的厳しさとは、なにも韓国特有のものではなく、日本人にとっても、日ごろ直面している厳しさと、基本は変わらないものであったと思う。

 主人公一家は中流以上が集う郊外のベッドタウンで暮らす普通の人々だ。
 彼らの生活は順調に見えたが、中間管理職のお父さんはくだらない理由で失業、引きこもりになり、営業マンとして奮戦するお母さんは、努力した成果を若い後輩に横取りされ、成績優秀な娘は、真面目に努力しても紙一重の差で志望している名門大学に入れない。

 こうした不運の連続は、韓国ばかりでなく、日本でも、いや、その他の国々でも、普遍的に存在するものだろう。
 ただ、人が死んだり傷ついたり、公共の利益が侵されたりしないので、「よくある些細な事」として、日常生活では黙殺されているに過ぎない。

 今回、シン・ドンイル監督が描こうとしたものは、ある程度、豊かで安定した社会で起こる「小さな不運」とそれに翻弄される「普通の人々」の姿だったのではないだろうか。
 そしてそれは、日常の大部分が、実は「小さな不運の連続」で占められている、ということなのかもしれない。

 映画『カム・トゥゲザー』では、この「小さな不運」の連続が、観る側にリアルな既視感をもたらす訳であるが、そこに私は「シン・ドンイル的世界」が、既に大きく揺らぎ始め、今までの映画的魅力を失いかねない岐路にあるのでは?という疑問を覚えた。
 それは、オムニバス『視線を越えて/真実の為に』から感じていたものだ。

 まず、『カム・トゥゲザー』において、従来の「シン・ドンイル的世界」と大きくずれていると感じたのが、「寓話性」の希薄さであり、ユーモアの欠如であり、単刀直入過ぎるラストだった。
 一般論として、「シン・ドンイル作品=リアルな人間ドラマ」と認識されているきらいはあるのだが、それは私の考える「シン・ドンイル的世界」と、必ずしも一致しない。

 あくまでも人間の滑稽さをリアルに見せつつ、それが「お話」であることを確信犯的に提示し、深刻で暗いドラマを描いていると思わせながら、人間の不完全さを皮肉なユーモアで描き、最後はアン・ハッピーに見えるが、実は違う「メタ化されたハッピーエンド」で締めくくる、というのが、私の持つ「シン・ドンイル的世界」だ。
 そしてそこには、「生きていれば、次はいいことが待っている」というメッセージが必ずあった。

 そうした、へそ曲がりなポジティブさこそ、シン・ドンイル監督の「作家性=意匠」であると常々思っているのだが、『カム・トゥゲザー』は、映画で提示するそれぞれの要素がストレート過ぎるゆえ、映画が終わっても釈然としない感覚が残り、余韻も感じないのである。

 もしかすると、『カム・トゥゲザー』のラストは、ハッピーエンドだったのかもしれないが、私はそこに全く逆のメッセージを感じた。
 なぜなら、問題が何一つ解決していないにも関わらず、「家族の絆」を取り戻すことを予感させるという、逆説的な解釈のできる終わり方になっているからだ。
 
 確かに、突然の土砂降りに追われて転倒し、泥だらけで幸せそうに笑うポング一家の姿は、明るい未来を暗示しているように見える。
 しかし、娘ハンナだけが、これから待ち受けているだろう暗い現実を予感してしまっているとも解釈でき、虚ろなハンナと対照的なポングとミヨンの姿には、みじめな救いのなさを感じたのであった。
 そして、彼らの泥だらけの姿こそ、今後この一家を待ち受ける暗い未来を強く暗示しているように見えて仕方なかったのである。

 これまでのシン・ドンイル作品における「絶望と不運の乱れ打ち」と言えば、『僕の友人、その彼の妻』も同様であったけれど、あの作品には「生き残ったもんの勝ち」という、執拗なポジティブさも隠されていて、全てを失い場末の美容院で細々と働く主人公夫婦の姿には幸福感すら漂っていて、それは『カム・トゥゲザー』と対照的ですらある。

 今回の『カム・トゥゲザー』はシン・ドンイル作品としては、「もっとも普通で分かりやすい映画」とも言えるが、実質的デビュー作『訪問者』辺りから注目していた人たちからすれば、私と同様の違和を、大なり小なり覚えた映画でもあったのではないだろうか?
 傑作『僕たちはバンドゥビ』の溌剌さが好きな人にとっては、期待を裏切られたかもしれず、情念に満ちた『僕の友人、その彼の妻』の迫力を期待した人にとっては、『カム・トゥゲザー』にガッカリさせられたかもしれない。

 もちろん、前作から約八年間というブランクは、作り手であるシン・ドンイル監督を変えるには十分な時間であって、昔からの観客が『カム・トゥゲザー』に違和感を覚えても、それは自然なことではあるのだが、その違和感が、シン・ドンイル監督の作家としての変質から来るものだったのか、一時的な迷走から来るものだったか、という読みきれない不安感が大きく残る。

 仮にそれが良くも悪くも「変質の予兆」だったとしたら、次回作以降、従来の「シン・ドンイル的世界」から大きく逸脱する、より作為的な試みが必要になるかもしれない。
 結果、今までの「シン・ドンイル的世界」がガラリと別物に変わってしまう可能性も考えられる訳で、長年彼のファンだった私からすれば、『カム・トゥゲザー』は、将来への、しこりを残した作品だったと言えるだろう。

 なお、ハンナがユギョンと別れる際、口づけを交わすシーンと、全裸のポングがハンナに抱きつくシーンは、地元観客らの間で議論ネタになっているというが、日本人にとっては逆に自然に受け入れられるシーンだったのではないかと思う。

 そして、何よりも、この二つのシーンこそ、『カム・トゥゲザー』における「シン・ドンイル」という「意匠」が最も込められたエピソードだったのではないだろうか。

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