SSブログ

Vol.238 『悲夢(비몽)』以心伝心の愛か?、ゴリ押しの勘違いか? [韓国映画]

 聞いた話では、人と狼ではボディ・ランゲージが、60%くらい共通しているらしい。

 だから犬科の動物と人はアイコンタクトによるコミュニケーションが成立する(オウムや猫とも成立するけど)ってことらしいが、動物でなくても、文化や言語を言葉を越えた意思疎通というものは確かにある。

 キム・ギドクのしょぼい問題作『悲夢』は、その「異文化・異言語」の狭間における意思疎通というテーマに大胆に切り込んだ異色作と、日本では大仰に誉める人が出そうな作品だが、私は全然そう思わなかった。
 それは、単なるメチャクチャな力技にしか、見えないのであった。

 まあ、そこら辺が「繊細な武闘派」キム・ギドクのキム・ギドクたるところではあるんだけど、天然パワーはすっかり丸くなったというか、消えてしまい、ヘンテコ味はそのままの、妙に手馴れただけの、結果「お手軽&貧相」感ばかりが漂う、ヒジョーにつまらない映画だった。

 この作品最大の話題は、オダジョーこと、オダギリジョーが主演していること。
 だが、「話題」といっても、一般からはかけ離れた、ごくごくマニアックな世界での話。
 
 オダジョー側からすれば「外国だけどご近所、監督は国際的に有名、作風はビンビン、でも仕事は速い」という、実は、ビジネスライクな点では好条件だったのも引き受けた理由かな、と想像したりする。

 韓国の映画館は、オダジョーのファンらしき、とんがり系な妙齢の、裕福そうな女性客ばかり。
 もしかして「キム・ギドク+オダジョー=おしゃれ」ってことなのかな??

 それは、まあいいとして、この映画を観て真っ先に思い出したのが『空港の一日』である。
 『空港の一日』とは、韓国映画の未来を担う新鋭たちが集ったオムニバス『まぶしい一日』の中の一本だが、等身大の日本と韓国を、リアルに清清しく描いた好篇だ。

 『空港の一日』では主人公の男女は互いの言葉が理解できないので、面倒くさくなって日本語と韓国語を勝手にしゃべりだす(ように見えた)が、それでも意思が通じてしまうプロセスが、実に明解に説得力を持って描かれていた。

 しかし『悲夢』にそんなものは微塵もない。
 唐突にオダジョーの日本語は相手に通じ、唐突に相手の韓国語もオダジョーに通じてしまうのだ。

 そこら辺、そうとうトンチンカンなのだが、よく考えてみれば、映画の舞台が韓国だとは一言もいっていないし、オダジョーが日本人だなんて、やはり一言もいっていない(でも、そうにしか見えないけど)。

 要は、この『悲夢』、平行宇宙で繰り広げられるSFファンタジーなのであって、言葉が通じる、通じないなんてことでブツクサいっていると、恥ずかしい作品なんだろう。

 ただ、オダジョーの演技は言葉が異なるにもかかわらず、どのカットもきちんと繋がっていて、それだけは偉かったと思う。
 劇中の彼は非常に饒舌で、とても力を込めて演じていた事がよくわかる。

 どこかの合作ドラマみたいに、日本語や韓国語のセリフを棒読みして「好きです、好きです、愛してます」メデタシ、メデタシと無理やりまとめるよりも、異社会間における人間同士の赤裸々な関係とはどういうことなのか?を、霊的な視点で描けていたのかもしれない……あれっ?いつの間にか、映画を誉めている話になっちゃった?

悲夢jpg.jpg

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。