Vol.255 チン△▼とオッ★☆は、本気度の証し?『渇き サースト(=박쥐)』 [韓国映画]
4月30日に韓国で公開された『渇き サースト(=박쥐)』は、吸血鬼を主人公にはしているものの、ホラーでもなんでもない作品だ。
あえてクサイ表現をすれば、<シュールな人間喜劇>といったところで、吸血鬼であることは、登場人物たちが抱える内面の複雑さを鋭角化して浮かび上がらせるための方便にしかみえない。
吸血鬼であることが、あまり見所になっていないところは、パク・チャヌク監督の斜めな冴え、といえるかもしれない。
非常に端正な映画になっていて、今までのような、無国籍風薄汚れ感はなく、舞台も、あくまでも韓国であることに、こだわった世界観だ。
フランチェスコ派の神父(ソン・ガンホ)が、吸血鬼になる、という設定は、相反する事象をぶつけるための表現方法なのかもしれないが、この世界で出てくる吸血鬼は、超人的な力を有してはいても、キャラクターというよりも、いわば病気であり、一個人で完結したアウトサイダーにしか過ぎない。
吸血鬼同士のコミュニティを作ったりしないし、ウェアウルフも、吸血鬼ハンターも出てこない。
それよりも、封建的な家庭関係から、吸血鬼として蘇えることで解放され、奔放に殺人を繰り広げるテジュ(キム・オクビン)の無軌道ぶりの方が、映画のテーマをより象徴しているようにみえる。
映画の前半は、『サイボーグでも大丈夫』のシュールな<静>的テイスト、後半からは『オールドボーイ』のような<動>的テイストに変化し、パクチャヌク作品10年の歴史を構成したかのような映画になっている。
また、この『渇き サースト(=박쥐)』、アメリカの会社が資本参加、海外公開前提の作品であるためか、主演のソン・ガンホも、キム・オクビンも、役者として覚悟をきめて、仕事に臨んでいたように思えた。
パク・チャヌク監督のブレイクのきっかけを作った『JSA』では、俳優たちよりも監督の方が明らかに立場が弱い状況だったろうが、今は<世界のパク・チャヌク>。
なにせ、ソン・ガンホは堂々と正面からフルチンを見せるし(日本ではボカシが入るのかな?)、キム・オクビンは脱ぎまくりだ。
日本以上に韓国は、スターが脱ぐことを拒否する世界。
日本の俳優は必然性があれば、際どいシーンでもやってくれる伝統があるけれど、韓国の俳優にそれは難しい。
ソン・ガンホは説明の必要がないくらいの大物俳優だし、キム・オクビンのような、<若くて可愛い>そして<タレントと女優とも、どっちつかず>な売り出し中の立場だと、下着姿だって、普通は拒絶するだろう。
<役者はみせてなんぼだろ>という意見はごもっともだが、格やヒエラルキーに厳しい韓国では、著名な芸能人が肌をさらすことは、日本で考えるより難しく、それを実行するには、パク・チャヌクくらいの名声がないと無理、ということなのかもしれない。
それに若い女優の場合、いったん脱げばそのイメージがずっとつきまとい、キャリアの傷になりかねないし、キム・オクビンは演技力が高く評価されているわけではないから、もう、博打だ。
二人の熱演ぶりが効を奏しているか否かは、映画を観て評価していただきたいが、映画界の方向性が数年前から大きく枝分かれし始めている今の韓国、<必然性があれば裸も辞さない>という姿勢がスターの間に芽生え始めてきたことは、実は大変いいことではないかと思う。
というわけで、日本のTVや映画も、彼らを<韓流、韓流>なんて、お宝扱いしないで、ちゃんとビシビシと使って欲しいもんだ、と『渇き サースト(=박쥐)』を観ながら、ずっと考えていたのであった。
あえてクサイ表現をすれば、<シュールな人間喜劇>といったところで、吸血鬼であることは、登場人物たちが抱える内面の複雑さを鋭角化して浮かび上がらせるための方便にしかみえない。
吸血鬼であることが、あまり見所になっていないところは、パク・チャヌク監督の斜めな冴え、といえるかもしれない。
非常に端正な映画になっていて、今までのような、無国籍風薄汚れ感はなく、舞台も、あくまでも韓国であることに、こだわった世界観だ。
フランチェスコ派の神父(ソン・ガンホ)が、吸血鬼になる、という設定は、相反する事象をぶつけるための表現方法なのかもしれないが、この世界で出てくる吸血鬼は、超人的な力を有してはいても、キャラクターというよりも、いわば病気であり、一個人で完結したアウトサイダーにしか過ぎない。
吸血鬼同士のコミュニティを作ったりしないし、ウェアウルフも、吸血鬼ハンターも出てこない。
それよりも、封建的な家庭関係から、吸血鬼として蘇えることで解放され、奔放に殺人を繰り広げるテジュ(キム・オクビン)の無軌道ぶりの方が、映画のテーマをより象徴しているようにみえる。
映画の前半は、『サイボーグでも大丈夫』のシュールな<静>的テイスト、後半からは『オールドボーイ』のような<動>的テイストに変化し、パクチャヌク作品10年の歴史を構成したかのような映画になっている。
また、この『渇き サースト(=박쥐)』、アメリカの会社が資本参加、海外公開前提の作品であるためか、主演のソン・ガンホも、キム・オクビンも、役者として覚悟をきめて、仕事に臨んでいたように思えた。
パク・チャヌク監督のブレイクのきっかけを作った『JSA』では、俳優たちよりも監督の方が明らかに立場が弱い状況だったろうが、今は<世界のパク・チャヌク>。
なにせ、ソン・ガンホは堂々と正面からフルチンを見せるし(日本ではボカシが入るのかな?)、キム・オクビンは脱ぎまくりだ。
日本以上に韓国は、スターが脱ぐことを拒否する世界。
日本の俳優は必然性があれば、際どいシーンでもやってくれる伝統があるけれど、韓国の俳優にそれは難しい。
ソン・ガンホは説明の必要がないくらいの大物俳優だし、キム・オクビンのような、<若くて可愛い>そして<タレントと女優とも、どっちつかず>な売り出し中の立場だと、下着姿だって、普通は拒絶するだろう。
<役者はみせてなんぼだろ>という意見はごもっともだが、格やヒエラルキーに厳しい韓国では、著名な芸能人が肌をさらすことは、日本で考えるより難しく、それを実行するには、パク・チャヌクくらいの名声がないと無理、ということなのかもしれない。
それに若い女優の場合、いったん脱げばそのイメージがずっとつきまとい、キャリアの傷になりかねないし、キム・オクビンは演技力が高く評価されているわけではないから、もう、博打だ。
二人の熱演ぶりが効を奏しているか否かは、映画を観て評価していただきたいが、映画界の方向性が数年前から大きく枝分かれし始めている今の韓国、<必然性があれば裸も辞さない>という姿勢がスターの間に芽生え始めてきたことは、実は大変いいことではないかと思う。
というわけで、日本のTVや映画も、彼らを<韓流、韓流>なんて、お宝扱いしないで、ちゃんとビシビシと使って欲しいもんだ、と『渇き サースト(=박쥐)』を観ながら、ずっと考えていたのであった。
今度「コウモリ」チェックしてみます☆
ソンガンホ主演のGoodBadWeirdも楽しみですね♪
http://gbw.jp/top.html
by まるめろ (2009-07-29 15:26)
…ところで、「こうもり」と書いた方がいいのでしょうか?映画から受ける感じだと、カナの方がイメージ近いんですが。
by さるすべり (2009-07-29 22:26)