Vol.256 風の囁きを聞け~瀟灑園~/光州を行く② [韓国カルチャー]
<瀟灑園>(소쇄원)。
<ソ・セウォン>と書けば、韓国の有名某タレントみたいな響きだが、漢字の正式名は<潭陽瀟灑園>といい、国の名勝第40号に指定された、朝鮮様式の庭園だ。
韓国で古い史跡を訪ねるとすれば、たいていの場合、市街地を大きく外れたところにある。
<瀟灑園>も例外ではない。
光州は、慶州と違って、手軽に史跡を巡ることが難しく、一通り効率よく観て回るのが大変だ。
そんなわけで、現代史以外の史跡は基本的にスルーするつもりだったのだが、<ぜひ、瀟灑園へ~>というお薦めの言葉があったので、思い切って行って見ることにした。
この庭園は、現地の有名どころ、<無等山>の峡谷を越えた山間の盆地にあり、車でないと、とても行けない場所だ。
だが、<瀟灑園>というものは、朝鮮王朝官僚だった、梁山甫(양산보)が、己卯士禍を機に、世を捨てて篭った書斎兼住宅兼庭園だから、僻地にあるのは当然といえば当然。
今でもえらく辺鄙な場所にあることから、当時は、それこそ世俗と絶縁した、孤高の地であったと思う。
だから、<韓国のベストセラー本で紹介⇒メジャー化>という状況を知った時、悪い予感が胸をよぎった。
市の外れからバスで向かうが、これが一時間に一本くらいしかない。
バスに乗って向かってみれば、本当に山奥。
それは、見方をかえれば、光州というところが、街の外郭を越えると、たちまち深い山、ということでもある。
バスに揺られて約40分、無等山の幽谷を越えると、田んぼが広がる盆地に出た。
目的のバス停を降りると、すぐ目の前に<瀟灑園>があった。
想像通り、すでに地元定番の観光ルートに組み込まれていて、入場料は取られるし(ちなみに日本円で¥100くらい、昔は無料だったという)、英語と日本語の看板も設置されていてと、仕方ないといえば仕方ないが、<ブルータスよ、お前もか>であった。
一応国有になっているが、朝鮮王朝時代から今に至るまで、梁山甫の子孫たちがずっと手入れをして維持してきたという。
京都を思わせる竹林を通り抜ける。
庭園の第一印象は、“なんか、しょぼい!”
ただし、それは、あくまでも第一印象での話。
庭園の構成自体は良く出来ていて、日本の様式基準でみると地味すぎ、素朴すぎかもしれないが、観光化されるまえならば、<侘び寂び>爆発な、日本人好みの風流な場所だったと思う。
<簡潔、質素、そのまんま>というテーマに沿って構築されたような設定で、日本の庭園とは対象的かもしれない。
ポツポツと立った建築物は、ほんとうに質素で、梁山甫がどれだけ世を儚んでここに引き篭もったのかが、よ~く、わかるようだった。
建物の手入れは、よく行き届き、当時作られた部分はほとんど残っていないとは思うけど、雰囲気はいい。
これで余計な人いきれがいなければ、1日いてもいい、心落ち着く場所かもしれない。
そして、日本の一部寺院や庭園のように、原則として非公開であれば、よかったのに、と残念にも感じた。
最も小高いところにある書院には、四方が開けた縁側があって、数人のグループが軒に上がって歓談している。
私たちもそこでしばし佇むことにした。
前方には切れるように澄み切った青空と山影が見え、清涼な日差しがふり注ぐ。
そして、一陣の風が吹いてくる。
<うーん、いいなぁ…>
その風が、なにかを語りかけてくるようだ。
そして、この場所のイメージが大きく変化する。
韓国ではよく遭遇することなんだけど、風はいつもポジティブなメッセージを心に運んでくる。
足早にここを通り過ぎるだけでは<がっかり名勝>に過ぎないが、思い切って足を止めて、その地と会話をするつもりになると、見えないものが見えてくるし、必ず何かが応えてくれる。
それを具体的に何かは説明できないが、<地の精霊>というものがいるとすれば、その風は、彼らのささやきにも聞こえる。
書院の縁側で歓談していたグループの人に、独自に調合したというお茶をいただく。
よくみると、そのグループの中核らしき人物は、若い僧侶であった。
たぶん、ここに何度か来ているのだろう。
建物の外では、大勢の観光客が無慈悲に足早に、園内を通り過ぎていく。
外国人も何人かいるが、誰も足を止めようとしない。
誰もかれも、立派なデジカメを首からぶらさげ、写真を撮ると、さっさと帰る。
まるで工場の流れ作業のようだ。
<公の名勝なんて、結局は小銭生産マシーンでしかないのかもな…>
お茶をすすりながら、そんなことをなんとなく考える。
再びさわやかな風が吹いてきた。
風がささやくメッセージ。
そこに具象化できる言葉はないけれど、静かな歓迎の声のようでもあり、そのささやきは、この地を訪れた人々の一人でも多くに、気がついてほしいと思うのだった。
<ソ・セウォン>と書けば、韓国の有名某タレントみたいな響きだが、漢字の正式名は<潭陽瀟灑園>といい、国の名勝第40号に指定された、朝鮮様式の庭園だ。
韓国で古い史跡を訪ねるとすれば、たいていの場合、市街地を大きく外れたところにある。
<瀟灑園>も例外ではない。
光州は、慶州と違って、手軽に史跡を巡ることが難しく、一通り効率よく観て回るのが大変だ。
そんなわけで、現代史以外の史跡は基本的にスルーするつもりだったのだが、<ぜひ、瀟灑園へ~>というお薦めの言葉があったので、思い切って行って見ることにした。
この庭園は、現地の有名どころ、<無等山>の峡谷を越えた山間の盆地にあり、車でないと、とても行けない場所だ。
だが、<瀟灑園>というものは、朝鮮王朝官僚だった、梁山甫(양산보)が、己卯士禍を機に、世を捨てて篭った書斎兼住宅兼庭園だから、僻地にあるのは当然といえば当然。
今でもえらく辺鄙な場所にあることから、当時は、それこそ世俗と絶縁した、孤高の地であったと思う。
だから、<韓国のベストセラー本で紹介⇒メジャー化>という状況を知った時、悪い予感が胸をよぎった。
市の外れからバスで向かうが、これが一時間に一本くらいしかない。
バスに乗って向かってみれば、本当に山奥。
それは、見方をかえれば、光州というところが、街の外郭を越えると、たちまち深い山、ということでもある。
バスに揺られて約40分、無等山の幽谷を越えると、田んぼが広がる盆地に出た。
目的のバス停を降りると、すぐ目の前に<瀟灑園>があった。
想像通り、すでに地元定番の観光ルートに組み込まれていて、入場料は取られるし(ちなみに日本円で¥100くらい、昔は無料だったという)、英語と日本語の看板も設置されていてと、仕方ないといえば仕方ないが、<ブルータスよ、お前もか>であった。
一応国有になっているが、朝鮮王朝時代から今に至るまで、梁山甫の子孫たちがずっと手入れをして維持してきたという。
京都を思わせる竹林を通り抜ける。
庭園の第一印象は、“なんか、しょぼい!”
ただし、それは、あくまでも第一印象での話。
庭園の構成自体は良く出来ていて、日本の様式基準でみると地味すぎ、素朴すぎかもしれないが、観光化されるまえならば、<侘び寂び>爆発な、日本人好みの風流な場所だったと思う。
<簡潔、質素、そのまんま>というテーマに沿って構築されたような設定で、日本の庭園とは対象的かもしれない。
ポツポツと立った建築物は、ほんとうに質素で、梁山甫がどれだけ世を儚んでここに引き篭もったのかが、よ~く、わかるようだった。
建物の手入れは、よく行き届き、当時作られた部分はほとんど残っていないとは思うけど、雰囲気はいい。
これで余計な人いきれがいなければ、1日いてもいい、心落ち着く場所かもしれない。
そして、日本の一部寺院や庭園のように、原則として非公開であれば、よかったのに、と残念にも感じた。
最も小高いところにある書院には、四方が開けた縁側があって、数人のグループが軒に上がって歓談している。
私たちもそこでしばし佇むことにした。
前方には切れるように澄み切った青空と山影が見え、清涼な日差しがふり注ぐ。
そして、一陣の風が吹いてくる。
<うーん、いいなぁ…>
その風が、なにかを語りかけてくるようだ。
そして、この場所のイメージが大きく変化する。
韓国ではよく遭遇することなんだけど、風はいつもポジティブなメッセージを心に運んでくる。
足早にここを通り過ぎるだけでは<がっかり名勝>に過ぎないが、思い切って足を止めて、その地と会話をするつもりになると、見えないものが見えてくるし、必ず何かが応えてくれる。
それを具体的に何かは説明できないが、<地の精霊>というものがいるとすれば、その風は、彼らのささやきにも聞こえる。
書院の縁側で歓談していたグループの人に、独自に調合したというお茶をいただく。
よくみると、そのグループの中核らしき人物は、若い僧侶であった。
たぶん、ここに何度か来ているのだろう。
建物の外では、大勢の観光客が無慈悲に足早に、園内を通り過ぎていく。
外国人も何人かいるが、誰も足を止めようとしない。
誰もかれも、立派なデジカメを首からぶらさげ、写真を撮ると、さっさと帰る。
まるで工場の流れ作業のようだ。
<公の名勝なんて、結局は小銭生産マシーンでしかないのかもな…>
お茶をすすりながら、そんなことをなんとなく考える。
再びさわやかな風が吹いてきた。
風がささやくメッセージ。
そこに具象化できる言葉はないけれど、静かな歓迎の声のようでもあり、そのささやきは、この地を訪れた人々の一人でも多くに、気がついてほしいと思うのだった。
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