Vol.321 映画版『이끼』は、ずっコケなミステリー 『黒く濁った村』 [韓国映画]
11月20日、韓国映画界の首領(ドン)、カン・ウソク監督の最新作『黒く濁った村/이끼』が日本で一般公開された。
韓国での公開が2010年7月14日だから、映画の内容を考えれば、異例の速さだ。
韓国企業・日本法人である配給元としてはもっと別の作品を選択したかったんじゃないかと思うのだけど、実力者の最新作とあっては、異論を挟む余地もなかったんだろう。
韓国での興行成績は約314万人。
上映時間が163分(日本版は161分となっている)であることを考えると立派な動員数だ。
でもこれって、数年に一回やって来る毎度お馴染みの『カン・ウソク祭り』という、いわば特別興行。
過去の『韓半島』や『カン・チョルジュン 公共の敵1-1』もそうだったけれど、政治力でコンスタントにこういう数字を出せてしまうことは、なにやら恐ろしい気がしなくもない。
この『이끼』という企画を新人監督や中堅監督が同じシナリオ、キャスティングで手がけ、120分程度に尺をまとめたと仮定すれば、おそらく動員数はよくて100万人程度だったのではないだろうか。
韓国映画として異例とも言える長尺の『黒く濁った村』は、元々ウェッブコミックの最高傑作として名高い『이끼』が原作だから、コアなファンに言わせれば突っ込みどころ満載の映画かもしれない。
映画の印象を括ると、約140分間は「すごい秘密があるぞ、すごい秘密があるぞ、すごい秘密があるぞ!」と引っ張り続け、最後の20分で「実は大した秘密なんかなんにもなかったんだよ~ん」と叫んでオシマイ、という感じ。
一応、さらなるどんでん返し(のようなもの)がラストに待ってはいるものの、「とっとと真相に気がつけよ!」と、主人公のヘグクくんの間抜けぶりに突っ込みを入れたくなること必至だ。
しかし、視点を変えてみれば、また別の興味深い側面も見えてくる。
物語は1978年頃から始まる。
映画ではあまりにさらりと描かれているのでわかりにくいが、韓国は軍事政権下の統制が一番厳しい時期でもあり、国家暴力装置としての公安組織が至るところで権力をブイブイ言わせていた暗い時代。
事の発端も韓国式キリスト系カルト教団であり、事件の謎を解くのは民主政権下で明るく自由な空気な青春期を過ごした世代だ。
つまり、韓国近・現代史という視点で観ると、朝鮮半島における「保守とリベラルの戦い」というイメージが浮かび上がってくる。
舞台が現代になると、それはさらに鮮明になってゆく。
描かれるのは、青年ヘググの無謀で身勝手な正義の戦いであり、平穏な今を守ろうとする村長と手下たちの利己的な戦いであり、個人的感情と理性の狭間で苦しむパク検事の戦いだ。
ヘググは自壊的なリベラル派の比喩であり、村長たちは権威主義丸出しの保守派の比喩であり、パク検事は矛盾に苦しむグレーゾーンの比喩でありと、半島で脈々と繰り広げられる終わりなきヘゲモニー闘争を暗喩しているようにも見えてくる。
もっとも、コミックの作者ユン・テホも、映画製作の陣頭指揮を取ったカン・ウソクも、意識してそんなパーツを組み込んではいないだろうけど、そう見えてしまうところが、この『黒く濁った村』の韓国映画たる個性でもあった。
パク・ヘイルが建前上の主演だが、実際はチョン・ジェヨンなのがあからさまで笑える。
なにせ、精力剤のCFにピッタリなくらい、ぎんぎらエナジーがもの凄く、エッジ立ち過ぎで他のキャストが完全に霞んでしまっているのだ。
凝った老人メイクをしても、全然、爺さんに見えないというのは困ったものである。
村長の極悪舎弟ハ・ソンギュ演じたキム・チュンベも今までとはちょっと違い、個性派ヒールとしての売りであったスキンヘッドと髭をやめちゃったことで、別の魅力が出ている。
でも、カン・ウソク作品を紹介するならば、こういった新作じゃなくて、映画監督として最も脂がのった1980年代後半から1990年代前半の作品群をちゃんと体系づけて公開すべきことの方が先なのではないか。
そうしないと「映画監督カン・ウソク」は永久に見えてこないのではないか。
そしてなによりも『韓半島』をちゃんと日本で公開すべきだと思うんだけど…
『欲望じじいのギンギラ大作戦』って感じですか。
韓国での公開が2010年7月14日だから、映画の内容を考えれば、異例の速さだ。
韓国企業・日本法人である配給元としてはもっと別の作品を選択したかったんじゃないかと思うのだけど、実力者の最新作とあっては、異論を挟む余地もなかったんだろう。
韓国での興行成績は約314万人。
上映時間が163分(日本版は161分となっている)であることを考えると立派な動員数だ。
でもこれって、数年に一回やって来る毎度お馴染みの『カン・ウソク祭り』という、いわば特別興行。
過去の『韓半島』や『カン・チョルジュン 公共の敵1-1』もそうだったけれど、政治力でコンスタントにこういう数字を出せてしまうことは、なにやら恐ろしい気がしなくもない。
この『이끼』という企画を新人監督や中堅監督が同じシナリオ、キャスティングで手がけ、120分程度に尺をまとめたと仮定すれば、おそらく動員数はよくて100万人程度だったのではないだろうか。
韓国映画として異例とも言える長尺の『黒く濁った村』は、元々ウェッブコミックの最高傑作として名高い『이끼』が原作だから、コアなファンに言わせれば突っ込みどころ満載の映画かもしれない。
映画の印象を括ると、約140分間は「すごい秘密があるぞ、すごい秘密があるぞ、すごい秘密があるぞ!」と引っ張り続け、最後の20分で「実は大した秘密なんかなんにもなかったんだよ~ん」と叫んでオシマイ、という感じ。
一応、さらなるどんでん返し(のようなもの)がラストに待ってはいるものの、「とっとと真相に気がつけよ!」と、主人公のヘグクくんの間抜けぶりに突っ込みを入れたくなること必至だ。
しかし、視点を変えてみれば、また別の興味深い側面も見えてくる。
物語は1978年頃から始まる。
映画ではあまりにさらりと描かれているのでわかりにくいが、韓国は軍事政権下の統制が一番厳しい時期でもあり、国家暴力装置としての公安組織が至るところで権力をブイブイ言わせていた暗い時代。
事の発端も韓国式キリスト系カルト教団であり、事件の謎を解くのは民主政権下で明るく自由な空気な青春期を過ごした世代だ。
つまり、韓国近・現代史という視点で観ると、朝鮮半島における「保守とリベラルの戦い」というイメージが浮かび上がってくる。
舞台が現代になると、それはさらに鮮明になってゆく。
描かれるのは、青年ヘググの無謀で身勝手な正義の戦いであり、平穏な今を守ろうとする村長と手下たちの利己的な戦いであり、個人的感情と理性の狭間で苦しむパク検事の戦いだ。
ヘググは自壊的なリベラル派の比喩であり、村長たちは権威主義丸出しの保守派の比喩であり、パク検事は矛盾に苦しむグレーゾーンの比喩でありと、半島で脈々と繰り広げられる終わりなきヘゲモニー闘争を暗喩しているようにも見えてくる。
もっとも、コミックの作者ユン・テホも、映画製作の陣頭指揮を取ったカン・ウソクも、意識してそんなパーツを組み込んではいないだろうけど、そう見えてしまうところが、この『黒く濁った村』の韓国映画たる個性でもあった。
パク・ヘイルが建前上の主演だが、実際はチョン・ジェヨンなのがあからさまで笑える。
なにせ、精力剤のCFにピッタリなくらい、ぎんぎらエナジーがもの凄く、エッジ立ち過ぎで他のキャストが完全に霞んでしまっているのだ。
凝った老人メイクをしても、全然、爺さんに見えないというのは困ったものである。
村長の極悪舎弟ハ・ソンギュ演じたキム・チュンベも今までとはちょっと違い、個性派ヒールとしての売りであったスキンヘッドと髭をやめちゃったことで、別の魅力が出ている。
でも、カン・ウソク作品を紹介するならば、こういった新作じゃなくて、映画監督として最も脂がのった1980年代後半から1990年代前半の作品群をちゃんと体系づけて公開すべきことの方が先なのではないか。
そうしないと「映画監督カン・ウソク」は永久に見えてこないのではないか。
そしてなによりも『韓半島』をちゃんと日本で公開すべきだと思うんだけど…
露骨にイヤゲで仕事しているアン・ソンギがとても印象的です。
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