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Vol.353 これは冗談なのか、マジなのか!?『アリラン/아리랑』 [韓国映画]

(あらすじ)
  山に篭った映画監督キム・ギドクは、自ら立てた小屋に住み、中にテントを張って(寒いから)、造形に携わる日々を送っている。
 特に自作のエスプレッソマシンに執着し、満足できる器械を目指していた。
 毎日が単調な繰り返しだが、時々不可思議なことも起こる。
 夜中や早朝に誰かが来てドアをノックするのだ。
 しかし、外には謎の足跡が残されているだけで、誰もいない。
 やがて彼は、自分自身にカメラを向け始める。
 彼の映画を巡る状況、世間の反応、そして満たされない心情をカメラに向かって独り、延々と吐露し始めるが、その彼を激しく諭すのも、もう一人のキム・ギドクだ。
 独りの諍いの狭間にインサートされる、彼のプライベート風景。
 キム・ギドクはエスプレッソマシンの代わりに、千手観音像がグリップにはめ込まれた見事な自作リボルバーを製作し始め、銃が完成すると街に降りて、気に入らない人間たちへ銃口を向ける…
 弟子たちに映画作りを任せて、引退を表明したキム・ギドク。
 だが、山から降りて来た時、そこには新たな一本のドキュメンタリーがあった。

 噂ばかりが先行して、いつ公開されるかサッパリ聞かなかったキム・ギドクの新作『アリラン』がついに韓国で一般公開された。
 単発公開ではなく、一部CGV劇場チェーンで行われたイベント上映『キム・ギドク展』の中の一本として、である。

 それは唐突な公開に思えたが、キム・ギドク作品の海外における知名度が高まると共に、韓国国内では評価も公開規模も、しょぼくなっていたから、まともな劇場で公開されただけでも喜ぶべきことだったのかもしれない。

 決して彼の映画監督としての役目が終わったとは思わないが、かつての「鋭さ」が作品群から全く感じられなくなって久しいのは事実だったし、ここ5,6年、彼の作品に対して全く興味が抱けなかったのも事実である。
 そして、最近のキム・ギドクは弟子筋に新作を撮らせることで、自らの遺伝子を継続させているようにも見えていた。

 今回「ひょっこり現れた」という表現がふさわしい『アリラン』は、とりあえず、ドキュメンタリーの様相を呈してはいる。
 だが、ドキュメンタリーとみなすことに抵抗を感じる人もいるだろうし、ドキュメンタリーの新しい表現として絶賛する人もいるかもしれない、不思議で奇妙な作品だ。

 シュールかつ不条理なだけの独りよがり系作品にも思えるが、「劇映画」として観れば、なかなか面白く、どこまでが事実で、どこまでが虚像なのか判断できないところや、釈明や分析を一切否定したマイペースぶり、そして強引な「天然力」が全編に満ち溢れている。

 もちろん、昔と同じものを期待しても、肩透かしになるだけではあるけれど、ドキュメンタリーという手法で、こんなトンデモない作品を作り上げたことは、楽しくもあり、愉快でもあり、と感じる反面、これじゃ、普通の劇場公開は難しいだろう、と納得してしまう。
 今だからこそ、公開できた作品かもしれない(10年前の韓国だったら、お蔵入り必至)。

 この『アリラン』の面白さは、キム・ギドク自身の不可解なキャラクター像の面白さでもある。
 彼は決して、一般から隠れていたわけではなかったが、一個の人間としての実体が如実に感じられるのは、今回が初めてかもしれない。
 その姿は異様であると共に、理知的であり、繊細であり、一般に評される「天才」というイメージ像とは異なる印象も受ける。

 だが、日常生活そのものが、映画を超えたクリエイティブな生き方一色に染まっていることはオドロキであり、魅力的であり、羨ましくもあり、「映画監督」としてのイメージを覆すものさえ持ち得ていると思う。

 やっぱりこの人はパターンにはめて評価してはいけない人物であり、ひょっとすると映画監督、映画製作者として評価してしまったこと自体、大きな過ちを犯していたのでは?と自問自答してしまう衝撃すら、そこにはあったのである。

 そして作品をユーモラスにして笑わせてくれるのが、「山篭り」の生活ぶりだ。
 さぞかし『春夏秋冬、そして春』の如く、俗世間から途絶した暮らしをしているのかと思いきや、全然違うのである。

 山里の一角に小屋を建てて住んではいるものの、中には巨大なMacintoshがデデーンと鎮座し、外には立派な自動車もちゃんとあって、街には出放題だ。
 住んでいる場所もかなり開けていて、これじゃ、日本のどこかの田舎の方がはるかに辺鄙なくらいである。
 彼がソウル郊外に自宅兼アトリエを持っていることは以前から知っていたけれど、それらしき場所も出てくるから、「引退」「山篭り」といった世捨て人的な暮らしというより、まるで「お金持ちのひきこもり」にしか見えなかったりする。

 でも、おそらく当人の意志とは別に「クリエイティブの呪縛」から逃げられなくなっている生活の様子を観ていると、「やっぱり、普通の人じゃ、ないんだなぁ」と、しみじみ思ってもしまう。

 だからこそ、キム・ギドクは大きく悩み、傷つき、こういう作品を撮ったんだろうけど…

 キム・ギドク作品を観ていない人には、謎のホリエモンもどきを追ったような「?」に過ぎない作品だが、リアルタイムで彼の作品を観て追ってきた人には非常に興味深い珍作だろう。
 次回作『아멘』も、期待しないで待ちたいと思う。

 ちなみに、私が見た回、前の席には高校生ぐらいにしか見えない可愛いチャラけた三人組の女の子がいたのだが、映画が終わるとロビーで熱くキム・ギドク論を語り合っていた。
 恐るべき、キム・ギドク!

ARI.jpg


AMEN.jpg
『아멘』1シーンより










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