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Vol.449 ガタガタ列車の危うい旅 『설국열차(スノーピアサー)』 [韓国映画]

 2013年8月…韓国はいつにも増して暑い夏、ゲリラ豪雨が猛威を振るっていた。
 TVの天気情報では、大邱の気温が37度と表示されていたが、ここ10年近く東京はそれ以上の状態なので、この国はまだまだマシな方だろう。

 そんな狂った夏真っ盛りの中、韓国では2013年最大の話題作ともいうべき『설국열차(スノーピアサー)』が一斉公開された。
 凄まじい劇場占有率で、さすがは韓国映画界の「星」である。
 昔「カン・ウソク祭り」が今は「ポン・ジュノ祭り」、時代の偏移を痛感させられる。
 だが、アート系小劇場まで動員してのひどい占有ぶりに、ウンザリした韓国の映画ファンも多かったのでは?…
(STORY)
 突如始まった氷河期から17年後の西暦2030年。
 文明は壊滅し、人類は滅びたように思えたが、一握りの人間たちだけが<설국열차>の中に作られた、閉ざされた世界で細々と生き延びていた。
 <설국열차>とは、鉄道王ウォルフォードが全世界に巡らせた膨大な距離の鉄道網を走り続ける特別仕様の弾丸列車であり、停まらない限り、中で暮らす人々は最低限ながらも生存を保証された「箱舟」だ。
 だが、走り続ける無限地獄と化した列車内部は、外界を全く知らない「トレイン・チルドレン」と呼ばれる世代が増え始めており、治安警察の暴力で統治された過酷なヒエラルキー社会と化していた。
 列車最後部で暮らす人々は常に家畜同然の生活を強いられ、幼い子供たちが謎の理由で親元から連れ去られて行く。

 下層階級の青年カーティス(=クリス・エヴァンス)は、師であるギリアム(=ジョン・ハート)助言の元、エドガー(=ジェイミー・ベル)らと共に列車前部で暮らす首相メイスン(=ティルダ・スウィントン)らの独裁的支配階級に反逆の狼煙を上げる。
 反乱軍は刑務所車両で睡眠拘束されていた<설국열차>のセキュリティ設計者ナムグン・ミンス(=ソン・ガンホ)と娘ヨナ(=コ・アソン)を目覚めさせ、謎のメッセージに導かれながら、血みどろの戦いを繰り広げて突き進んでゆく。
 やがて辿り着いた列車先頭部は、農園や魚の養殖場が設けられた全く別の世界が広がっており、そこで暮らす人々は退廃した暮らしを送っていた。
 多くの犠牲者を出しながら、機関部がある先頭車両にたどり着いたカーティスだったが、ウォルフォード(=エド・ハリス)から予想もしなかった真実を突きつけられる…

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 ポスターやチラシだけ見ていると、ビジュアルや世界観に特異で個性的な印象を受けるかもしれないが、実はかなりオーソドックスで拍子抜けだったりする。
 原作は未読なので映画との比較は出来ないが、R・H・ハインラインの名作『大宇宙の孤児』以降、一つのジャンルになった「さまよう孤立した世界とその真実」という、SF小説における定石をかなり忠実に踏まえた物語である。
 SFが好きな方なら、C・プリーストの『逆転世界』あたりを連想するかもしれないし、富野由悠季の『OVER MAN キングゲイナー』を思い出す人もいるかもしれない。

 だから、というわけでもないだろうけど、『설국열차』という映画には、何も期待しないで臨んだほうが「拾い物&お得」感を得ることが出来るかもしれない。
 特にラストは韓国の一般観客とって、あまり納得できるような締めくくり方ではなかったと思う。
 だが、これもまた「定石に忠実」といった終わり方でもあって、SF小説好きにとっては、正統派のラスト(≒仕方ない終わり方)だったとは思う。

 また、最大公約数の観客に向けた娯楽作ではないので、観る人によってはかなり退屈かもしれない。
 狭く暗い空間で繰り広げられる映像に脈動感は全くなく、非常に単調な展開であり、1976年の『カサンドラ・クロス』が列車アクションとして、かなり優秀だったことに気が付かされた。
 「氷河期」という設定も、今となってはビジュアル的にマンネリ以外の何物でもない。

 では、退屈なりに「ポン・ジュノ節全開の作家主義作品か?」といえば、やっぱりそうでもないのである。
 何箇所かポン・ジュノらしいユーモラスな展開や、細かいディティールが垣間見られるが、それまでの彼の映画の印象を、この『설국열차』まで引きずり続けると、ただ戸惑うだけだろう。
 ポン・ジュノがどうのこうのと言う以前に、どこの誰が作ったか分からないような無国籍で謎の映画、といった感じなのだ。

 確かに、撮影や照明に大きな制限のある狭い列車を舞台にして、基本的なセリフはほとんど英語(一部日本語あり)、スタッフ、キャスト共に韓国人ではない人々が大半を占めているという環境にもかかわらず、一つの大作としてきちんと完結させたポン・ジュノの力とは、相変わらず称賛すべきものではあるのだけど、どうしても中途半端で歯切れ悪い作品であることは否定出来なかった。

 公称4千万ドルの製作費を世界中からかき集め、ギャラの高~い有名俳優を何人も使ったことは、韓国映画界の脅威(=驚異)的ポテンシャルを改めて見せつけられる半面、「じゃあ、その半分の製作費で、韓国純度100%の『설국열차』作ったらどうなの?」と考えた時、圧倒的に面白いのはそっちの方としか思えなかったりするのである。

 2013年の夏休み興行において『설국열차』との直接対決を避けた、これまた大作『미스터 고』は、明らかに韓国内でコケたけれども、率直な面白さ、エンターティメントしている点では、『설국열차』より全然上だったし、『설국열차』の一日前に公開された、遥かにしょぼいスケールの『더 테러 라이브』がえらく盛り上がり大ヒットしてしまったことも、これまた対照である。

 果たして、『설국열차』は、ポン・ジュノの新たな代表作と呼んでいいのだろうか?
 いや、いや、とてもそうと言えそうにない。
 果敢な実験作、意欲作、野心作かもしれないが、作り手の野望を観客として一方的に押しつけられても、ちっとも面白くない、という見本だったのかもしれない。

 豪華な出演陣も、「面白くなる可能性」の足を引っ張っているようにしか見えなかったりする。
 これは監督と出演者の深く微妙なレベルにおいて、コミュニケーションにどうしても溝がある以上避けられないことなのだろうが、ポン・ジュノの機知に富んだ良い意味での「俳優猿まわしぶり」は、残念ながら欧米の俳優たちの前では、頑と拒否されたままで終わってしまったように思えるのである。

 主演のクリス・エヴァンスは暗く陰鬱なだけで演技が非常に固く、主人公に相応しい役割を果たしているとは言えないし、ノリノリの怪演を見せたティルダ・スウィントンにしても、演出上の苦肉の策だったのでは?と思わざるえないような浮いたキャラに見えた。
 ソン・ガンホに至っては英語のセリフが一言もなく、全て通訳機器を通しての会話という情けなさで、韓国語特有の下品な言い回しを翻訳できず、機械がエラーを起こすシーンは、全く笑えない。
 この設定を見ていると、『終戦のエンペラー』で見せた西田敏行の役作りは、ホントに素晴らしかったと思う。

 その一方で、ジョン・ハートが一番の適役だったことは、かつて映画青年だったポン・ジュノらしいセンスと言えそうだし、最後の〆を担当するエド・ハリスも演技は形式的で熱意を感じないが、その魅力をそこそこ活かせていたかもしれない。
 でも、最も主演に相応しい存在感を見せていたのが、ヒエラルキーもギャラも、彼らの中で一番低いと思われるコ・アソンだったことは、なにやら皮肉であった。

 前作『母なる証明』を観た時、「ポン・ジュノはどこへゆく?」と困惑したが、今回の『설국열차』は更なる混迷を深めたと言えるかもしれない。
 それは私如き凡人には理解できないポン・ジュノの深さかもしれないが、更なる進化への予兆だったとしても、彼の国の人々が本当に理解し、受け入れてくれたかどうかは全く別のお話だし、ポン・ジュノに対して何の思い入れもない外国の一般観客にとっても、似たようなものなのではないのだろうか?
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